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鶴見虹子

  • 2010/06/28(月) 02:37:44

冨田、鹿島の引退を受けても新世界チャンピオン内村航平の出現など世界と対等に戦える男子体操界。内村に次ぐ強烈な若手の台頭はないものの政界水準のレベルは十分に維持しているだろうからここ数年は世界のトップで戦えるだろうと思っている。その反面、女子はまだまだ世界との差は大きく団体戦でのオリンピック出場、入賞が目標のレベルである。ただ、ひとりのエースを除いては・・・の話である。




鶴見虹子。



身長140cmの17歳。小柄な日本人の中でも極めて小さい体の体操選手なのだ。

中国人のコーチに幼小期から見出されてから今日まで体操漬けの生活を送っている。中学卒業後も体操に専念するために通信制の高校に通い学業よりも体操という生活を送っているのだ。14歳で全日本チャンピオンになると世界選手権に初出場し団体のオリンピック出場権獲得に大きく貢献した。個人総合でも唯一決勝進出し15位に入る健闘見せ世界のレベルを十分に知った。



北京オリンピックでもエースとして大車輪の活躍を見せロサンゼルスオリンピック以来24年ぶりとなる団体戦で5位に入る大健闘をみせてくれた。ロサンゼルスオリンピックでは当時絶対的な力を誇っていたソ連やルーマニア、ハンガリー、チェコスロバキアなどの東ヨーロッパ勢が政治的理由で出場をボイコットしていたためその価値は疑われたが北京オリンピックでは予選を勝ち抜いた上での5位入賞っただけに十分誇れる成績だった。ちなみに個人総合では世界選手権に続き予選を突破し17位になっている。

そして昨年ロンドンで行われた世界選手権では個人総合で実に日本人43年ぶりの銅メダルを獲得する素晴らしい快挙を挙げた。同日行われた男子の個人総合で内村航平が金メダルを獲得した為にそのニュースの扱いは低かったが女子体操が世界でメダルを獲得するというのは鶴見虹子には極めて失礼だが奇跡に近い快挙であることを声を大にして言っておきたい。

くしくもロンドンの会場は2012年ロンドンオリンピックの体操会場と同じである。一気にロンドンオリンピックのメダル候補に名乗りをあげた鶴見虹子。19歳で迎えるロンドンオリンピックで日の丸を掲げられるだろうか?今から楽しみである。



鄭大世の涙にに本当のワールドカップを見た

  • 2010/06/21(月) 00:02:14

日本生まれ日本育ちの在日朝鮮人Jリーガーが北朝鮮代表としてワールドカップのピッチに立った男。鄭大世(チョン・テセ)

南アフリカワールドカップのフィールドに立った誇り高き32カ国総勢736人の選手。試合目前の国歌斉唱を祖国の思いを胸に聞いた事だろう。
その国歌斉唱を誰よりも「熱く」誰よりも「誇り」持って聞いた男が北朝鮮代表の鄭大世(チョン・テセ)だったろう。試合前に流した大粒の涙の訳とは・・・・




父は日本生まれの在日コリアン2世。国籍は『韓国』、母は日本生まれの在日2世で国籍は『朝鮮』であった。そんな2人の息子である鄭大世(チョン・テセ)の国籍は『韓国』だった。それは日本の法律に基づいた父親の国籍を取得するというルールだけの国籍であった。しかし彼は国籍のことを意識して育っていない。むしろ母親の強い勧めで小学校から大学まで16年間通った朝鮮学校で『在日同胞』としてのアイデンティティーは自然とつちかわれていった。

拉致問題をはじめとする政治問題で日本と北朝鮮は微妙な関係が続き更には核兵器問題などで世界中から非難され孤立していた北朝鮮。それでも”祖国”のほこりを胸に”半島統一”を胸に秘めサッカーに打ち込んできた。

朝鮮高校時代には将来を嘱望され沢山の大学から誘いを受け迷った末、出した答えが「朝鮮大学校」進学だった。いかにも鄭大世(チョン・テセ)らしい選択だったのだ。
朝鮮大学校サッカー部は東京都3部リーグに所属し鄭大世(チョン・テセ)の才能からすればもったいない選択だったしサッカー選手としては間違った選択だったかもしれない。それでも鄭大世(チョン・テセ)はサッカー選手である前に「朝鮮人」だと言い張ったそうだ。

大学入学後もその強いハートとフィジカル、圧倒的な練習量でチームメイトを鼓舞するもなかなか成果がでなかった。
チームメイトの意識レベルも低く練習もしなかったし試合に負けても笑っている選手や試合中にたばこを吸っている選手まで・・・何度もぶつかり喧嘩した事も一度や二度ではなかった。

鄭大世(チョン・テセ)をそんなに熱くするのは子供の頃から植えつけられた「祖国」への誇りだった。その事を熱く語るうちにチームは変わり始め卒業前の最後のシーズンは東京都1部リーグに昇格するまでになり大活躍の鄭大世(チョン・テセ)はJリーグ数チームからスカウトを受け朝鮮大学校から初のJ1リーグの選手が誕生したのだ。




そんな鄭大世(チョン・テセ)が更なる大きな問題にぶつかる。「国籍」である。
サッカー選手として最大のあこがれは祖国の代表としてワールドカップのピッチに立つことである。

法律上、鄭大世(チョン・テセ)の国籍は『韓国』だった。
しかアイデンティティーは「北朝鮮」にあった。16年間も朝鮮学校で“在日朝鮮人”として育ち教育を受けたのに国籍が『韓国』ってことに矛盾を感じてはいたがワールドカップを見据えた時には感情以上に法律というやっかいな壁にぶち当たったのだ。

北朝鮮代表になりたくてしょうがなかった。でも『韓国』籍なのでなれないと知り、国籍を変えることを決意する。しかし、法律は簡単ではなく感情論では誰も相手にしてくれなかった。

それでも諦めきれない鄭大世(チョン・テセ)は在日本朝鮮人蹴球協会を通じ、FIFA(国際サッカー連盟)に対し嘆願書を何通も送り支援を仰いだ。そんな熱意が伝わりFIFAは在日コリアンの特異な歴史的経緯から、現在の国籍が『韓国』の鄭大世が国籍を母親の国籍である北朝鮮に変え北朝鮮代表になることを認め韓国、北朝鮮のそれぞれのサッカー協会の承諾をとりつけ各国の外務省にもその旨を伝え問題がないことを確認・要請しついに認められたのだ。



経済的にも決して環境が良くない北朝鮮代表。更に日本生まれでありJリーガーとして北朝鮮では破格の給料をもらっている鄭大世(チョン・テセ)に対し優しく迎え入れてくれる雰囲気ではなかった。
それでも人一倍の努力と熱い気持ちでチームを鼓舞し続けFIFAランク104位の北朝鮮が世紀の番狂わせと言わしめアジア最終予選を突破しこの日のピッチに立ったのだ。




幼少期には在日というだけで不当な差別を受けたこともあった、朝鮮大学時代はチームやリーグの低いレベルに悩んだ、さらに国籍という大きな問題に対しFIFAや外務省をも巻き込み「北朝鮮国籍」を得た。
経済的に厳しい北朝鮮代表チーム、政治的理由で海外の強国と親善試合も出来なかったし情報収集すらさせてもらえなった。練習をしたくても芝生のスタジアム確保もままならない・・・・そんな幾多の困難を乗り越えて立った南アフリカのピッチで聞いた北朝鮮国歌。

あおの大粒の涙こそがスポーツの良さであり政治や経済をも凌駕するスポーツの良さであり凄さである。こんな話を熱く熱く書き続けるライターで僕はあり続けたい。

野杁 正明(のいり まさあき)

  • 2010/06/19(土) 01:36:14

昨年のK−1甲子園で一躍脚光をあびた愛知県に住む高校2年生。「尾張の怪童」と呼ばれる17歳。

野杁 正明(のいり まさあき)。

小学生の低学年から空手を始めたのだがその理由が「いじめ」だったそうだ。小学校入学した時から「いじめ」に会い始めた野杁 正明(のいり まさあき)が一念発起ではじめた「空手」がまさかこんな”天才”を生むとは・・・不思議なものである。

空手を始めて半年後には中部日本ジュニアで優勝し6年生時には全日本ジュニアのチャンピオンで優勝するほどの実力だった。




高校1年生の夏には主催者推薦枠でK-1甲子園に出場し年末のDynamite(ダイナマイト)では前年度チャンピオンでこの世代では絶対王者と呼ばれたHIROYAを圧倒し大差の判定勝ちをし世間を驚かせた。

そのまま優勝しK-1甲子園では初となる1年生チャンピオンになったのだ。高校一年生と3年生ではフィジカルの完成度が全く違うのにそのフィジカルの差を感じさせないパワーとスピードを兼ね備えた天才肌のファイターぶりに関係者も驚きを隠せなかったらしい。

高校2年生になった今季は本格デビューを果たし3連勝といまだK−1では負け知らずである。超高校級にして“怪物”と呼ばれる野杁 正明(のいり まさあき)は更なる進化を続けている。





特に先日行われたプロ第3戦目の相手は昨年の全日本空手大会の決勝でも対戦した選手。空手でも圧倒的な力の差で野杁 正明(のいり まさあき)が勝ったのだがK−1になるとその差はさらに開いたような気がした。





接近しての強打を狙う相手に対し冷精に間合いを測り、前蹴りでストップ、あるいは突き放し試合のイニシアチブを終始握り続ける。さらに相手のディフェンスの隙を見つけては的確に右ストレートと右フックの打ち分けをヒットさせボディブローや顔面前蹴りと憎いほどに自由自在に攻撃をヒットさせ続けた。

左足に大きなダメージを負った相手に対し完全に左ロー一本に狙いを定めサウスポーに構えをチェンジする器用さまで見せた。
普段とは逆のサウスポーの構えでも普段と違和感なく左右のパンチを繰り出し続け、さらには左ローキックも的確にヒットさせ完全に主導権を握った。左ローを効かせた上で跳びヒザで懐へ入り、左ボディフックを打ち込むなど格闘技の玄人ファンをも唸らせる技の多彩さと老かいさだった。

圧倒的な力差を見せつけ最後はストレート一閃でKO勝ちを収めた。左右のパンチと左右のキックをどれも自在に使いこなし、瞬時の判断と巧みな使い分け。そしてそれを可能にする恐ろしいほどの冷静さまで持ち合わせたまさに史上最強の17歳といっても過言ではないだろう。


世界を制する可能性をも秘めている「尾張の怪童」野杁 正明(のいり まさあき)。
是非、覚えておいてもらいたい。

佐野泰雄

  • 2010/06/18(金) 00:17:18

3年生の高校球児は最後の夏の甲子園を目指して日々練習を重ねているようだ。
ひたむきに甲子園を目指す純粋な18歳を見るプロ野球のスカウト陣の活動も球児とともに活発になってきたようだ。

プロ野球のスカウト陣は各チーム10名程で構成され日本各地の地区別に担当が振り分けられ高校生、大学生、社会人、独立リーグと血眼になって有望な選手を探し技術の完成度に成長可能度合は勿論のこと、フィジカルのチェックから人間性、家庭環境まで詳しく調べつつチームの補強ポイントに見合った選手を選び出すのだ。
ドラフト当日に指名されるのは5〜8名程度だがリストアップされスカウト陣がチェックするのは各チーム100〜150名程という。

名もない高校生の練習試合に赴いてはスピードガンやストップウォッチ片手にビデオを回す労力は相当なものだろう。

そなスカウト陣の目を釘付けにした左腕が現れた。

野球強豪県の埼玉の中の無名の県立高校・和光高校に通うタイ・バンコク生まれの父親が日本人で母親がタイ人のハーフ・佐野泰雄。

バンコクで生まれ幼少期に日本に来た佐野泰雄を小学生になり近所に住む友達が少年野球に誘ったのが野球を始めたきっかけだった。
小・中学校と野球を続けたものの内野手、外野手の控え選手で試合で大活躍する事はあまりなかったそうだ。和光高校に進学し野球部に入るものの弱小チームでポジションも持ち回りで務めるようなチームだったそうだ。
そこで佐野泰雄にもピッチャーの役が回ってくる。これが初めてのピッチングだった。つまりピッチャーデビューという訳だ。

しかし初めて投げたボールはバットにボールが当たらないどころかキャッチャーも取れない剛速球でチームメイトを驚かせた。

ピッチャー転向3年目。

176cm、77kgの体はまだまだ大きくなりそうな感じがするし技術的にも伸びしろはかなり多いはずだ。

一年生からチームのエースナンバーを背負い県大会デビュー戦で18奪三振の完封で周囲を驚かせ練習試合で20奪三振の完全試合を達成するなど佐野泰雄の名は県内に轟き渡ることになる。もちろんプロのスカウト陣の情報網にもその噂はひっかかりスカウトリストにアップするも在籍する和光高校は部員が20名弱でしかも3年生がたったの3人、監督も27歳の青年監督、野球では典型的な無名校だけに練習試合の相手も無名校である。
従ってその快投の価値は半信半疑だったようだ。

そんなスカウト陣が実際に目にした佐野泰雄の姿に度肝を抜かれたらしい。

威圧感あふれる大きなフォームからキレ味抜群のストレートを投げ込み落差のある大きなカーブがアクセントとなり相手打者のバットがくるくる回る。球種はストレートとかーブの2種類だけ。

その2種類の球だけで三振の山を築いていく。一気にドラフト上位指名予定にランクアップされた逸材になった。

今ではプロ野球12球団全部のスカウト陣が集まる注目の無名エース。

佐野泰雄。

この名前はこの秋、必ず話題に上る名前である。是非、覚えておいてもらいたい。



渡辺俊介 「地上3cm」のリリース

  • 2010/06/17(木) 23:31:32

アメリカ・メジャーもさることながら日本のプロ野球界でも希少な投法「アンダースロー」。世界一の低さ「地上3cm」でボールをリリースする渡辺俊介を人は「平成のミスターアンダースロー」と呼ぶ。




下半身に大きな負担がかかる投法である事から土台となる下半身を重点的に鍛えており、本人曰く「上半身の筋肉はあまり重要ではなく、下から徐々に力を加え腕を鞭のようにしならせる投げるイメージ」と独特のイメージ感を持っている。「こんな体力の使うフォームで涼しい顔して投げられるということは、かなりの柔軟性に加え、相当下半身が鍛えられてないとできない投げ方だ。まさにクレイジー投法だ」とメジャー選手多くも「アンダースロー」に驚いている。





投球動作開始から「地上3cm」の世界最低リリースまでの『時間』を相手打者からほとんど気付かれずに変化させタイミングを外すという極めて高度な技術を持ち合わせ、抜群にコントロールされたボールはストライゾーンの「高低」、「左右」を徹底的に使った投球術はまさに「芸術の域」である。

ちなみに「地上3cm」で精密機械の様にリリースされるがそこは人間、極々たまに地面に指先があたり怪我をする事もある。

プロの世界で輝きを誇る異色のエース渡辺俊介だがその野球人生は決して順風満帆ではなかった。小学生から野球を始めたが小、中学生とレギュラーにも慣れず試合に出れなかったという。

「この時の渡辺俊介を見て誰が後にプロ野球選手になると思っただろうか?」恐らく皆無であろう。試合に出れないもどかしさから遊び半分で始めたのが「アンダースロー」だった。漫画「ドカベン」に登場するエース里中を模したピッチングフォームだった。
中学3年生になってもチーム内では3番手ピッチャーだった。高校に進学後も3年間エースにはなれず全国的にま全く無名の選手だった。大学進学し社会人の新日鉄君津に進んで野球を続けるもののチームのエースにはなれず2番手ピッチャーだった。

社会人野球の最高峰、都市対抗野球でエースの故障で廻ってきたチャンスに見事に答えた。強敵を次々と撃破し下馬評を覆すベスト4進出に大きく貢献し大会の優秀選手賞を獲得しシドニーオリンピック代表に選出された。

希少な投法「アンダースロー」を操り世界の強豪相手に対し秘密兵器としてサプライズ選出されたのだ。





しかし大会では準決勝のキューバ戦で痛恨のホームランを浴び負け投手となるなど結果が出せなかった。
それでも独特のフォームから繰り出される正確無比なコントロールと多彩な球種にプロのスカウトの目にとまり千葉ロッテにドラフトされ今日がある。

自慢のアンダースローを「変則投法」と言われるのを極度に嫌うなどポーカーフェイスながらも強いハートを持ち合わせるピッチャーは今日本球界でも抜群の安定感を誇る大エースである。

強靭的な下半身と全身の柔軟性を駆使した世界一の低さ「地上3cm」でボールをリリースする渡辺俊介に注目していただきたい。



増井浩俊

  • 2010/06/14(月) 00:00:42

優勝を目指す北海道日本ハムの救世主になるかもしれないドラフト5位ルーキー・増井浩俊(ますいひろとし)に注目している。







静岡県出身で静岡高校時代も甲子園出場経験もなく中央球界では全く無名だった。駒沢大学に進学し飛躍が期待されたが大きな活躍をあげれなかった。
しかしプロの関係者からは「181cmから投げおろす角度のあるストレートを活かせる変化球があれば・・・」と注目されていたそうだ。

社会人の東芝に進み荒削りながらも結果が付き始め社会人3年目の昨年には都市対抗で予選から強豪相手に臆することなく快投を続けアマチュアだけの編成になったワールドカップ日本代表に選出されるなど一気にプロ注目のピッチャーとなった。

長い腕を柔らかくしならせ常時140km台後半のストレートと切れ味抜群のスライダーを武器に組み立て、精度は欠くもののフォークを織り交ぜながらのピッチングはプロでも通用するのではと評価が上がった。

しかし増井浩俊には大きな欠点があった。コントロールが悪くファーボールを連発し自滅してしまう試合があるのだ。
強豪相手に完封勝利をあげたかと思えば次の試合にはフォアボールを連発し早々とノックアウトされてしまうなど「安定感」という点では信頼度はかなり低かった。

ドラフト5位で北海道日本ハムに入団し首脳陣から大きく期待されチームの先発ピッチャーの相次ぐ故障によりチャンスは思いのほか早く巡ってきた。

4月9日のソフトバンク戦にプロ初先発し6回を投げ4失点し勝ち負けもつかなかったが、ストレートのキレもスピードも十分通用する予感をさせた。先発3戦目となったオリックス戦では7回をたった1安打に抑え見事初勝利を挙げた。更なる活躍が期待されたが次の試合では4回途中で7つのフォアボールを与え簡単にマウンドから引きずり落とされてしまう。
プロ入り前から懸念されていた「安定感」にはまだまだ欠けるが角度ある150km近いストレートは十分通用するのが分った。




プロで勝ち続ける為にはフォームの修正も余儀なくされそうではあるが今後も期待した逸材であることには違いない。僕としては「安定感」にとらわれず、小さくまとまらずに投げてもらいたいのだが・・・・

古川頌久(ふるかわのぶひさ)  海外挑戦を決めた中学3年生

  • 2010/06/13(日) 12:19:40

世界のサッカー界はいよいよワールドカップモード一色の世界のサッカー界。

ヨーロッパの主要リーグも終わり、日本のJリーグをはじめとする春秋シーズンのリーグも一旦、休憩にはいった。ヨーロッパリーグがオフシーズンになったといっても来季のチームの構想に見合ったし烈な選手獲得競争はこれからが本番である。ワールドカップを絶好のアピールの場と考える選手も多いはずだ。ワールドカップ終了後に各リーグで優勝を義務つけられた名門クラブの大型補強に世界中のファンが一喜一憂する姿が容易に想像できる。日本人プレイヤーも例外ではないので楽しみにしたいところだ。

そんな大型移籍とはちょっと縁遠いが将来面白い話に大化けする可能性のある移籍話を紹介したい。

横浜市の中学3年生、古川頌久(ふるかわのぶひさ)がイタリアリーグの2部リーグ「セリエB」ブレシアというチームからオファーを受けユースチームに入団することになった。

イタリア代表でも活躍したロベルト・バッジオが所属していたブレシアとかつて中田英が在籍し現在は「セリエA」で戦っているパルマFCなど多数クラブの入団テストに参加した結果、ブレシアから熱烈のオファーが届き入団を決意したそうだ。

FIFAの規定で17歳以下の選手が他国に移籍する条件として親の同伴を義務つけており簡単ではないが古川頌久の熱い思いに懸けた両親はイタリア移住を決意しビザを取得した。家族の人生設計すら変えさせた古川頌久の才能はイタリアで通用するのだろうか?15歳にして1m84cmという恵まれた体格を持ち足元のテクニックにも長けその将来性は高く評価されていたがそれは国内での評価である。確かにJリーグのスカウト陣からユースチーム入団への誘いは引く手あまたにある。ヨーロッパをはじめ南米やアフリカ諸国にはこの程度の選手はびっくりするほど沢山いる。それでも早くから海外・ヨーロッパを意識していた古川頌久は頑なにJリーグからのオファーを断りチャンスを待った。

そんな古川頌久に舞いこんだ千載一遇のBIGチャンス。その一回のチャンスをものに出来るか出来ないかも「プロ」の選手として大きな差となる。そのチャンスをものにしたのだ。ブレシアでの練習試合で徹底的なマークにつかれた上、試合開始早々に激しいタックルを受け利き足を強打し負傷したにも関わらず2得点1アシストの大活躍でブレシアのスカウト陣を釘付けにした。テスト期間中、卓越した技術はイタリアでもこのクラスでは十分通用したし何よりゴールに向かう熱い気持ちは誰よりも上回っていた。

普段は温厚な普通の中学3年生。そんな男がフィールドに立ちゴールを目指した時、人が変わったように豹変する。悪質なラフプレーを続ける相手ディフェンダーに対し乱闘騒ぎを起こし出場停止になった事もあった。もちろんスポーツ選手として決して肯定できる行為ではないがそんな激しい気持ちがないと世界のトップレベルでやっていけないのも事実だ。テクニックだけでは世界で対等に戦えない事を知った古川頌久の熱く長い挑戦に期待したい。

エリカ・ブラスバーグ

  • 2010/06/07(月) 00:31:41

アメリカ女子ゴルフ界で屈指の美人ゴルファーだった。エリカ・ブラスバーグ。





5月9日、遺体となって発見された。25歳という若さでこの世を去ってしまったのだ。

警察当局は一か月たった今でも死因や当時の自宅内の様子などを発表しておらず、米ゴルフ界きっての美女といわれた彼女に何が起こったかは未だ謎に包まれたままだ。アリゾナ大ゴルフ部時代から頭角を現したエリカ・ブラスバーグはプロ転向と同時に美人ゴルファーとして注目を集めた。
実力とは裏腹にスポンサー企業複数社が契約を求めるほどの人気急騰で大手スポーツメーカー「PUMA」のイメージキャラクターを務め試合よりもマスコミ界でブレークした。下部ツアーでは優勝したもののトップレベルの試合では8位入賞が一度あるぐらいで結果が残せず苦戦が続いていた。





将来を嘱望されながらもプロとして結果が出ずに成績不振に悩んでいたという証言は多いがその死には今尚、多くの謎が残されている。マスコミの過度の期待がエリカ・ブラスバーグ自身を苦しめていたが彼女の性格からすれば自殺は考えられないという。
エリカ・ブラスバーグにゴルフの手ほどきをした父親のメル・ブラスバーグ氏は「エリカはとても優しく、人と対立することを嫌っていた。怒ることよりもほほえむことを第一にしていた。彼女は私たちのハートを奪うような本当にかわいらしい娘でした」と葬儀では涙ながらに語った上で「自殺ではない」ときっぱり答えている。


亡くなった日の週末に開催予定だったトーナメントにも出場を決めていて愛車には既にゴルフセットを積んでいたという。ところが、出発の前日、つまり遺体発見の数時間前、専属キャディであるミッシー・ペダーソンに「トーナメントには行かない」というメールを送っている。
この時彼女自身に何があったのだろうか。メールを受け取り心配したミッシー・ペダーソンがすぐに返信を求めたがそれ以後返事はなかったらしい。

事故なのか自殺なのか、はたまた事件性があるのか未だ謎だが才能あふれる屈指の美人ゴルファーの早すぎる死は本当に悲しい。

警察当局には全力で真実の解明をしてもらいたいものだ。

河田剛  史上初の日本人NFLコーチへ挑戦

  • 2010/06/06(日) 17:46:02

かつてNFL(アメリカンフットボール)を目指した日本人が今はアメリカンドリームを夢見る若き大学生をサポートする仕事に就いている。
スタンフォード大学のアメリカンフットボール部のオフェンス担当アシスタントコーチ河田剛。






城西大学でアメリカンフットボールを始め、Xリーグ(社会人リーグ)ではシーガルズのオフェンス陣の顔として活躍した。日本代表にも選ばれワールドカップで優勝した事もあった。日本人トップクラスのポテンシャルを持つと言われたほどの名選手だった。
NFLを目指してファルコンズのキャンプに招待選手として参加した河田剛。
NFLへ挑戦という大きな壁はいとも簡単に河田剛の前で立ちふさがった。そのキャンプに現役を終えスタッフとして働いていたクリス・ダルマンは河田剛の献身的で基本に忠実なプレーに「もう少し体が大きくフィジカルが強ければ・・・」と日本人である河田剛のプレーに注目していた。しかしNFLの壁は高く”夢”果たせぬまま帰国したのだ。

引退後は2006年までシーガルズのオフェンス担当コーチを務め2007年からはフットボールの本場であるアメリカに渡り"夢の続き”を模索した。
河田剛が現役時代にNFLに挑戦した時のクリス・ダルマンとの出会いが河田剛の人生の運命を大きく変えたと言っても過言ではないだろう。

クリス・ダルマンがスタンフォード大のスタッフに就任したと知った河田剛は特に約束も取り付けずにアメリカに渡りクリス・ダルマンに頼み込んでボランティアスタッフとしてチームに参加した。
ボランティアというだけあって給料も出ず環境は決して良くなかったが河田剛には大チャンスだった。ボランティアスタッフと言っても河田剛の都合で好きなだけチームに帯同させてもらえる訳ではない。契約期間は3か月。河田剛の働きをテストしスタッフとして必要かどうかを見極めるのだ。ボランティアスタッフからアシスタントになりフルタイムコーチに昇格するまでの険しく長い道のりだ。河田剛にとって2度目の挑戦であった。本人曰く「馬車馬のように働いた」そうだ。その献身的なサポート力と戦術理解度、コミュニケーション力を認められアシスタントスタッフとして契約したのだ。

全米屈指の名門校として名高いスタンフォード大学。コーチングスタッフの大半が元NFLのトッププレイヤーが占める。アメリカ全土からNFLを夢見るフットボーラーが元NFLプレイヤーの指導を受けたくて集まってくる。選手も一流、コーチも一流。そんな環境に河田剛は身を置いている。

グランドには朝6時に入り、日中はアシスタントコーチ業務に邁進し、夜になるとオフィスでデータ資料作りに没頭し帰宅は深夜12時を回る事も少なくないらしい。何故、そこまで頑張れるのか?
”夢”の為である。

永遠の”夢”である「NFL」に挑戦し続けているのだ。現役選手として果たせなかったがコーチングスタッフとしては諦めていないのだ。

スタンフォード大学からステップアップしてNFLへの挑戦の為にはどんな自己犠牲もいとわない。
そんな河田剛を心から応援したいと思っている。


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