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ウェイン・ルーニー

  • 2010/07/29(木) 00:03:26

ワールドカップで期待外れの成績に終わったイングランド。44年ぶりの頂点も狙えるのではと期待していたが結果は決勝トーナメント一回戦でドイツ相手に簡単に敗れ去ってしまった。

大会前にいまやチームの精神的支柱となったベッカムを欠きさらに守備陣の要ファーディナンドも故障で欠くなど故障者に悩まされたのが大きな敗因であるがあえてA級戦犯を見つけるとしたらウェイン・ルーニーを指してしまうのは僕だけではないだろう。

3月末に負った足首の怪我から高地への適応失敗まで、不振の原因には複数の説があるが、それにしても、南アフリカでのウェイン・ルーニーの出来はひどかった。
クリスティアーノ・ロナウドが抜けた名門マンチェスターUのFWをしっかり守り、前線からの守備意識を高く持ちながらもゴールを量産したその姿は完全に影をひそめた。

大会前は大会得点王の呼び声が高かった事を思えば散々というべきだろうか?

フィジカルの問題もあったのだろうがルーニーという選手を生かす戦術が取れなかったのも事実ではある。
マンチェスターUではギグスやナニといった左右を駆け上がりセンター付近でもしっかりルーニーをサポートしスペースを作ってくれるアシスト陣がいる。しかしイングランド代表の攻撃陣にはその確かな存在がいなかった。ヘスキーやレノンがその役を務めたのだがどちらも役不足の感は否めない。

しかも守備の要、ファーディナンドをけがで欠いたディフェンス陣が安定せず頼みの綱であるジェラードやランパードの位置が下がり前線との距離がぽっかりと空いてしまう致命的な欠陥を露呈してしまった。

たまらずルーニーも下がってボールをもらいに行くため相手ディフェンダーをますます楽にさせてしまいしっかり守備網をひかれてしまったのだ。


優勝候補の呼び声が高かったはずのイングランドの惨敗の責任を一身に背負う若きセンターフォワードは今後、どのような成長と輝きをみせてくれるのだろうか?

次回のブラジル大会では本物のウェイン・ルーニーがみれるのだろうか?

プレミアリーグだけで輝く選手にだけはなってほしくないのだが・・・・そう思えばルーニーの成長よりも若きイングランド人の台頭の方が気になるところだ。

大山加奈

  • 2010/07/28(水) 00:32:32

パワフル・カナの愛称で親しまれた大山加奈が引退をした。



栗原恵とメグ・カナコンビとして大ブレークしたのが19歳で迎えたアテネオリンピック。改めて世界との差を感じ、リベンジを決意した北京オリンピックを大山加奈は病院のベッドの上で迎えていた。

慢性的な腰の痛みと戦いながらだましだましやってきた体は完全に悲鳴を上げ壊れてしまったのだ。
「脊柱管狭窄症」。

普段の生活時から違和感を感じ続けまっすぐ腰を伸ばした姿勢を維持できない。それどころか歩く事にも苦痛を感じ大腿部に膝に至るまで痺れと麻痺を繰り返す程、重症だった。

北京オリンピックでアテネの借りを返そうと痛みと戦い苦しんだが断念して手術を受けた。腰に約20cmもの大きな手術痕を残す程の大手術を受け過酷なリハビリも受け続けた。
1年以上にも及ぶリハビリを経て昨年のプレミアリーグで復帰し日本代表復帰を目指した。その年には代表候補に選ばれたものの腰の状態は芳しくなく代表招集を辞退してしまったのだ。この時、すでに大山の頭の中には”引退”という2文字が過ぎっていたのかもしれない。


バレーボールを始めた時からいつかこの日が来る事は分っていたのだろうがこんなに早くくるとは・・・



小学校卒業時には175cmあった。圧倒的なフィジカル差を活かして小学校・中学校と所属チームを全国制覇に導いた。早くからバレーボール界の金の卵と注目される存在になり高校でも名門・成徳学園高校(現・下北沢成徳高校)に進学し全国制覇をするなどどの世代でも頂点に立った。

栗原よりも早く高校生時代に日本代表に招集された早咲きの天才はその高さとパワーを武器に世界と戦い続ける事を余儀なくされ成長途上の体を酷使し続けた。

慢性的な腰痛に加え足首に股関節、右肩関節不安定症など満身創痍な体は既にボロボロだった。東レで新人王に輝いた頃からフィジカルは極端に下がっていたことはバレーボール関係者ぐらいしかいない。ファンにはいつも心配かけないようにと笑顔を絶やさなかった。そんな笑顔がまた痛々しく思えた。
本当は歩くことさえ苦痛だった筈なのに・・・



ファンの期待に応えられなかった悔しさに加え自分自身に対しての不甲斐なさ。
どこまでも負けず嫌いで懸命すぎるほど懸命な大山加奈は引退会見で涙を流した。残念ではあるが、どこかほっとした僕がいるのもまた事実だ。
長い間、本当にお疲れ様でした。そしてありがとう。


朱雨玲(ジュ・ユゥリン)

  • 2010/07/27(火) 15:41:37



卓球の世界選手権女子団体戦で見事に絶対王女中国を破り初優勝を決めたシンガポールの女帝・王越古(ワン・エグ)がその疲れを感じさせない活躍で日本の地で優勝カップを掲げた。

プロツアー・ジャパンオープン荻村杯で優勝を決めたのだ。層の厚い中国勢は母国の超級リーグと日程が重なったため出場していなかったがそれでもその力は圧倒的だった。

そんな王越古(ワン・エグ)よりも輝いていた中国の新星を今日は紹介したい。

超級リーグに出場するトップチームの選手ではなく若手主体で参加した中国勢。その中でも若干15歳の選手に僕は度肝を抜かれた。
まだ15歳。若手主体の今回の中国女子チームの中でも最年少だった朱雨玲(ジュ・ユゥリン)だ。

平野早矢香や福原愛の日本のトップ選手を撃破したかと思えば韓国のカットマン朴美英をも撃破して決勝に勝ち上がったのだ。

平野にしても福原にしても国際試合の経験豊富な強者なはずだがいとも簡単に退けた。福原愛にいたっては一回戦で今大会参加の中国勢では唯一の国家1軍チームのメンバーだった易芳賢を倒していただけに調子は悪くなかったはずだ。勢いだけで勝ち上がったとしても十分な価値がある対戦相手を技術やスピードで圧倒し簡単に倒してしまったあたりは勢いだけではないポテンシャルを感じさせてくれた。

朱雨玲(ジュ・ユゥリン)のセンセーショナルな活躍が強い印象を残してくれた。

朱雨玲(ジュ・ユゥリン)は1995年1月10日に四川省綿陽市で生まれた15歳。
小学1年生の時に地元の少年宮で卓球を教えていた王強コーチの目に留まり本格的に競技を開始。少年宮というのは子どもたちがスポーツなどの課外活動を行う施設のこと。朱雨玲は少年宮の練習が休みになる週末も王強コーチを家に招き両親が自宅に買い入れた卓球台で練習に励んだという。

その2年後には早くも四川省のジュニアチームに入り四川省女子チームの李永生監督の指導を受け順調に実力を伸ばしてきた。
2009年に14歳で全中国ジュニア選手権ベスト8、そして今年1月のジュニア選抜集合訓練で3位となり、中国国家2軍(ジュニア)チーム入りを果たしている。
今年6月の甲Aリーグ(超級リーグの下のカテゴリー)に参加しシングルス17勝6敗と高い勝率を記録した。

朱雨玲の利点は「非常に頭が良く、試合での対応能力、戦術転換に優れている」と監督も技術以上に頭の良さや器用さを褒めている。

今大会でも決勝戦こそ百戦錬磨の王越古(ワン・エグ)のバック表ソフトのボールと逆モーションのレシーブに手を焼き、完敗の内容だったが、序盤でミスを連発した準決勝の朴美英戦では巧みな戦術転換も見せ逆転勝ちを収めるなどクレバーな試合運びに15歳という年齢を疑いそうになる。


朱雨玲(ジュ・ユゥリン)
中国女子卓球の未来は明るい。

ルイス・アルベルト・スアレス

  • 2010/07/24(土) 12:43:43

ワールドカップで南米の勢力図を塗り替えたといっても過言ではない活躍を見せたのが準決勝、3位決定戦で敗れたものの4位と健闘したウルグアイだ。

その中でも大エースのフォンランを差し置いて次世代のエースとして期待以上の活躍を見せてくれたのがルイス・アルベルト・スアレスだ。

元々の期待値が低かったわけでもなくウルグアイ国内はもとより世界中のサッカーファンから期待はされていたが今一その実力の程を疑問視されていた。

母国ウルグアイのナシオナル・モンテビデオでプロ選手としてキャリアをアヤックス・アスタートさせた。スアレスは高い個人技を買われオランダに移籍。2007年からはオランダの名門アヤックスに移籍した。移籍初年度にいきなり17得点しリーグ得点ランキング3位にはいった。
翌シーズンも終盤まで得点王争いを演じ22得点あげランキング2位にはいった。
今シーズンは更なる進化を遂げ年間4度もハットトリックを見せるなど大爆発し堂々と得点王に輝いた。
オランダリーグ最速の通算50ゴールを挙げるなどその活躍はまさにワールドクラスになった。

しかしまだまだ精神的なコントロール力にかけハットトリックの次の試合では決定機を次々と外すなど安定感に欠きチームでもウルグアイ代表でも”絶対的”エースになりきれないでいた。

個人技頼りの突破力は極めて脅威だしファンも面白がってみるがその反面、シュミレーションが多く度々イエローカードをもらい無駄な退場も繰り返すという悪い一面も持っている。

それでも中盤に下がってでも前を向いた状態でパスを供給されれば何かを見せてくれる選手なのでファンは目を離すことができない選手の一人だ。

ワールドカップでも準々決勝のガーナ戦で同点で迎えた延長戦の緊迫した場面で相手の決定機に大きく手を出しハンドをもらい一発退場処分をくらってしまった。
明らかな決定機でスアレスを突破されれば間違いなく一点を失っていたシーンでの極めて故意にだしたハンドに批判は集まり非難の嵐だったが一部では賞賛の嵐でもあった。なぜならガーナが得たPKを外し結果ウルグアイが勝ち上がったからである。

あのシーンは一発退場をくらってでも止めるべきだったかどうかは別にしてここ一番でそんなシツュェーションに出くわすスアレスはきっと何かを持っているのだと思う。

まだ23歳の若さ。アルゼンチンのメッシらと同じ世代である。

ルイス・アルベルト・スアレス。
更なる成長と次回ブラジル大会での大活躍を心底、期待している僕がいる。

山下斐紹

  • 2010/07/21(水) 22:18:13

甲子園出場を目指す高校球児の夏が全国各地で始まっている。

千葉県習志野高校のキャッチャー山下斐紹に注目している。

50メートル走5秒9の走力に加え遠投120メートルの強肩で二塁送球タイムは高校生レベルでは最高クラスの1・8秒を切るポテンシャルの持ち主である。
千葉県はもとより全国でもトップレベルのキャッチャーですでに高校NO,1の呼び声もある。「地元出身うんぬんではなく高校生でトップクラス。欲しい選手」と特に千葉ロッテのスカウト陣が高く評価しドラフト上位候補として
既にリストアップしている。
チームでも4番を務め高校通算本塁打33本の長打力を秘める打撃と走攻守3拍子そろっている万能型の逸材であることは間違いない。

大学No・1捕手との呼び声が高い青学大・小池の獲得を狙っている球団もたくさんあるようだがこの夏の活躍次第では山下斐紹の方が上位で指名される確率は一気に高くなる。

山下斐紹は中学1年時に投手から外野手に転向し高校入学後からキャッチャ―に転向したのだ。つまりキャッチャー経験は3年もないのだ。キャッチャー転向後即、名門・習志野のベンチ入りをするだけの才能を見せ始めたのだ。1年秋の公式戦からはレギュラーキャッチャーに定着し甲子園出場に大いに貢献した。
まだまだキャッチングやインサイドワークに課題は残すものの伸びしろはかなりあるはずだ。

この秋のドラフトは斉藤ら大学のピッチャーが注目されそうだが
山下斐紹の名が必ず上がるはずである。

是非、覚えておいてもらいたい。


ボブ・シェパード  ジョージ・スタインブレナー

  • 2010/07/20(火) 00:12:13

ニューヨーク・ヤンキースに2日続けて悲しい事が起きてしまった。涙にくれたファンや関係者、選手も多いことだろう。7月11日「ザ・ボイス・オブ・ヤンキースタジアム」と言われた球場アナウンサー、ボブ・シェパード氏がこの世を去った。99歳だった。

シェパード氏はヤンキース伝説の男、ジョー・ディマジオの現役最終年で、
ミッキー・マントルがデビューした1951年の開幕戦からヤンキースタジアムでのアナウンスを開始。
07年9月5日のロイヤルズ戦まで、約4500試合を担当した。半世紀以上、56年もの間、ヤンキーススタジアムで選手の名をコールし続け選手の一挙手一投足を見守り続けたまさに真のヤンキースの歴史のような人だったのだ。

もちろん、過去に日本人プレイヤーの名前をコールしてきたので松井秀喜や伊良部秀輝の名前もコールしてきたのだ。ヤんキース主将のディレック・ジーターは現在でも録音されたボブ・シェパード氏の声で打席に入っている。

ボブ・シェパード氏は07年9月5日の試合後は体調不良を理由に自宅静養に入り昨年11月には正式に引退を表明していた。
そんな巨星が99歳の大往生でヤンキーススタジアムから旅立ったのだ。


ヤンキースのニューヨーカーの涙が枯れる間もなくヤンキースのオーナーであるジョージ・スタインブレナーが心臓発作の為80歳にしてこの世を去ったというニュースがニューヨーク中をかけめぐった。



1973年というから約37年前にジョージ・スタインブレナーが42歳の時に
3大ネットワークの一つCBSから当時1000万ドルでヤンキースを買収したのだ。
「人間が呼吸の次に大事なのは勝つこと」などと豪語し財力による強引なトレードでの戦力補強は、チームだけでなくメジャーリーグ全体の年俸の高騰化を招いた。
時折、ファンやマスコミから「やりすぎ」とバッシングを受けたがその言動がぶれることなく大金をはたき超大物選手を次々と獲得し「勝利」のみを追求する名物オーナーとして君臨し続けた。ボブ・シェパードと時を同じくして2007年にヤンキースの経営を実質的に2人の息子に委ね、最近は療養のためフロリダ州タンパの自宅に滞在していた。

松井にが入団し活躍したルーキーイヤーで新人王を逃した際は「私の中では、ヤンキースのために左翼を守った彼こそが新人王。ニューヨーク日本のために一生懸命プレーした」と正式コメントとして擁護する発言をするなど「勝利」至上主義ながらも温厚で心優しい人なのだ。そんな一面があることはニューヨーク市民には周知の事実でだからこそバッシングしてもオーナーとして
敬っているのだ。

そんなジョージ・スタインブレナーもまたニューヨークから姿を消した。
安らかに眠ってほしいものだがあの世でもまた「勝利至上主義」なのだろうか?

ボブ・シェパードとジョージ・スタインブレナー。

2人がニューヨークから消えたことが今はただただ残念である。

ディエゴ・マラドーナが泣いた夜

  • 2010/07/18(日) 01:26:31

中村俊輔の様にワールドカップの神に見放された男がいる陰で過去には幾多の名選手がワールドカップの神に愛されその名を世界に轟かせてきた。

アルゼンチン国民の期待はその采配手腕よりもワールドカップの神に愛された過去の栄光に期待したのかもしれない。



若き天才リオネル・メッシを擁し優勝候補の一角にも挙げられていたアルゼンチンが準々決勝のドイツ戦で国民の期待を大きく裏切る大敗を喫してしまった。

0−4という屈辱的スコアで完敗しメッシ・テべスを中心とした華麗な攻撃サッカーと奔放な言動で大会の話題をさらったマラドーナ監督は涙にくれた。

開始わずか3分で失点したディフェンス陣は簡単なまでに混乱した。ミロスラフ・クローゼのポストプレーを自由にさせてしまいシュバインスタイガーやポドルスキーを何度もフリーにしては強烈なシュートを浴び続けた。
肝心の攻撃陣もメッシを完全に封じられテべスのサイド突破も空しくドイツの守備網にかかり攻撃の起点すら作れなかった。
「ドイツのW杯は今日でで終わる」と言い放ち絶対的な自信を持って臨んだマラドーナ監督だったが屈強なゲルマン魂の前に簡単に力尽きてしまったのだ。

選手時代も引退後もマラドーナはいつも孤独だった。
監督就任後もファンやメディアに珍采配や選手選考の疑問をたたかれた。
それでも強気なマラドーナ監督に対しファンやメディアもワールドカップの神に愛され続けた過去の栄光に期待した。

全員が運動量が豊富で効果的なフリーランを行いチーム全体でパスをつなぐ意識が高いドイツに対しアルゼンチンの攻撃は常にブツ切りでメッシやテベスやアグエロも個人技によるドリブル突破でしか見せ場を作れない。
「早く攻めたい。誰か早くボールを奪ってくれ」という意識がアルゼンチン攻撃陣の心に先に立ち、選手全員が少しずつ他人任せになり守備をサボるようになる攻撃志向のチームがリードされたときに陥る、典型的な現象がピッチ上で起きていた。すなわち次第にボールに対するアプローチが甘くなり自陣への戻りも遅くなりみるみる守備網は穴だらけになっていくのだ。マラドーナはそんなチームを作ってしまったのだ。

まるでマラドーナ監督の現役時代を彷彿させたチームバランスの悪さにドイツは情け容赦なく襲い掛かり圧倒的な差をつけて快勝した。



マラドーナ監督の目が真っ赤に腫れた。戦前には考えもしなかった完敗。

アルゼンチンは一見、ヨーロッパのビッグクラブで活躍するタレント選手が揃っているようでいて結局のところ予選から本大会を通じて攻撃はメッシ頼みだった感は否めない。攻撃型のチームでありながら、メッシの自由な動きを封じればアルゼンチンの攻撃は怖くなく、それでいてディフェンスのリスク管理はかなり甘く力の劣る相手なら個人能力で封じ切れたが同等以上の相手となるとその甘さが致命的となってきたチームだった。

そう思うと今回のアルゼンチンには勝ち上がるほどのチーム力が無かったと言わざるをえない。もしかしたらアルゼンチン国民はみんなその事に気が付いていたのかもしれない。




それでも国民はサポーターは「ワールドカップの神に愛された男」に期待し
予想以上の結果を求めた。求めたというより「ワールドカップの神に愛された男」の偉大さに賭けたのかもしれない。

そんな神通力が効かないのもワールドカップの奥深さなのかもしれない。

中村俊輔  ワールドカップの神に見放された男

  • 2010/07/16(金) 10:00:25

戦前の予想を大きく覆す決勝トーナメント出場という快挙に歓喜に沸いた日本代表。大会前は不甲斐ない試合を続けた岡田監督に「辞めろ」と迫ったサポーターも大会後には「英雄」扱いだった。監督という職業はつくづく大変なものだと改めて思い知らされた。
大会後も笑顔がなかった選手が一人だけいた。エースナンバー「10番」を背負った中村俊輔だ。



彼ほど日本代表に熱い思いを持ちサムライブルーのユニフォームが似合う男はいないはずだった。

代表国際Aマッチ98試合24得点という偉大な実績を残してきた選手であるがなぜかワールドカップにだけは輝かないのだ。代表に帯同し続けるためにJリーグ復帰を志すも横浜マリノスの処遇の悪さからスペイン移籍を余儀なくされ、それでも活躍の場を求めてJリーグに復帰しサッカー人生の集大成と位置付けたW杯・南アフリカ大会に臨んだ筈だった。

フィジカルの問題を抱えたまま無理をして試合に出続けた疲労のツケがワールドカップ期間中でも回復する事無く結果、中村俊輔がピッチに立ったのはオランダ戦の途中出場の25分間のみだった。
「コンディションは戻ってきた。ミスもあったけど仕事はできたと思う」と試合後には前向きに語っていたが、何度も相手にボールを奪われるなど全盛期の彼とは程遠い出来だった。

岡田監督が就任以来、ずっと絶対的エースとして信頼を置いていた背番号10はその期待に応えることなく終焉の時を迎えた。



19歳の時、当時まだ無名の中村俊輔をフル代表に招集したのは当時の岡田監督だった。フィジカルの弱さを露呈し98年のフランス大会の選考には漏れたが
順調に成長を遂げ2002年の日韓大会ではスーパーサブとしての出場を期待させたがフィリップ・トルシエ監督との確執が表面化し選考に漏れ人目をはばからず涙を流した。
この挫折をバネにイタリアからスコットランドへ渡って自分自身を磨き器の大きな選手に成長したのだ。
満を持して中心選手として挑んだ06年ドイツ大会は目に見えない重圧からか肝心なところで原因不明の発熱に見舞われた。体調管理の甘さをバッシングされた中村俊輔は予選全敗のA級戦犯扱いされた。

だからこそ「今年の南アフリカワールドカップでは完全燃焼したい」と意気込んだが空回りし小さなけがを繰り返した。チームドクターの制止もふりきり試合勘が鈍るのを恐れて無理を重ねた。
今にして思えばこの間違った判断が悔やまれてならないのだが、スペインで試合に出ることが出来ず失意の元Jリーグ復帰したのだから
焦る気持ちは十分わかるが、もし完治するまで休養していたらこのような形で終わることはなかったはずだ。

誰もが認める絶対的信頼感のあるエースの不調はチームのリズムを崩し守備にも攻撃にもテンポも生まれずチームは崩壊した。

皮肉なことに岡田監督が非情の決断を下し中村俊輔を外してからチームは輝きを取り戻し予選を突破したのだ。



トルシエに外された02年のころは中田英寿以上のエゴイストだったと言われている中村俊輔が、
南アフリカのベンチでは仲間を盛り上げチーム結束力を高めようとコミュニケーションを率先してとり
チームには欠かせない選手になっていた。その姿には人間的成長が強く見て取れた。
悔しかっただろうし自分に対して不甲斐なった事だろう。ストイックなまでにサッカーに取り組んで来た男なのに
ワールドカップの神様は簡単には微笑んでくれなかった

大会後、誰よりも日の丸そしてW杯にこだわったレフティーの口から「代表引退」の言葉が出てきた
代表に憧れ自分の仕事を見つけてはストイックなまでに技術を高めてきた男が白旗を上げたしまった。
日の丸をつける事に疲れた訳ではないだろう。力が大きく衰えたわけではないだろう。
あるとすればほんの少しだけ”ワールドカップの神様”に対する恨みかもしれない。

観野甲輝

  • 2010/07/12(月) 03:04:47

中学時代から幾度も清原和博の再来とも言われてきた観野甲輝。




PL学園進学後も1年生から圧倒的な存在感を放ち4番にどっかり座り清原以来の公式戦で名門・PL学園の4番を張った男だ。
順調な成長を遂げるかと思われたが昨年は怪我などにも泣かされ春先以降はベンチから外れる時もあり今春のセンバツではPL学園は甲子園に出場したものの観野甲輝は屈辱のベンチ外に追いやられるなど長く低迷が続いていた。
しかし最終学年3年生に入り再びその輝きを取り戻しつつある。

春季大阪大会で背番号3をつけながらマウンドに上がった。骨太の体格とふてぶてしいまでのその雰囲気。高校時代の清原和博をも思い出せる圧倒的なオーラは際立っていた。
打者の内角を厳しく突き時には相手に当てても素知らぬ顔。それまで怪我などに泣かされリハビリを怠り復帰が遅れるなど精神的に少しひ弱なイメージを持っていたがそんなイメージを完全に払拭してくれる姿だった。

投手としての才能というか野球センスは随処に見せてくれた。フィールディングなどをみてもスピード感はないが球際は悪くないように思える。投手としてもコンスタントに135キロ級の球を投げ込める地肩の強さがあるのでプロに行って野手になっても守備で苦労しそうにないタイプであろう。

ただ走力に関しては正直期待できない。そのプレースタイルからも走塁への意識は高くなく足を売りにして行くタイプには思えない。この辺は高校時代に大騒ぎされ鳴り物入りで北海道日本ハムに入団した中田翔ににているかもしれない。

観野甲輝の持ち味であるバッティングはホームランを量産する大砲タイプのスラッガーと言うよりは広角に打ち返す中距離タイプの強打者ではないのだろうか。ここが清原和博とは大きく違うところである。

しかし高校に入ってからは清原和博の呪縛に取りつかれたようなバッティングに変わってしまった。特に内角の球を強引に引っ張ったり、逃さず叩く力強いスイングする姿など広角に打ち返す好打者的タイプからスラッガータイプへの変貌を求められ悩んでいるかのようにも見えた。
ここ数年のバッティングスタイルから打てる球や打てるポイントはかなり限られている気がするのは気になるところだが甘い球を逃さない「鋭さ」があるのは大きな魅力である。

プロに求められる身体の強さ・スイングの鋭さは高校生の右の大型内野手としてはピカ一でるのは間違いない。打撃へのこだわりは誰よりも強く持っているようだ。バッターボックスでの独特の雰囲気を持っているのは高校からプロに行くような選手が共通して持っている感じだ。

もちろん清原和博にもあったし中田翔にも感じた。まだまだ粗くプロで大成するには入団してから時間は少しかかる素材なのかなとは思うが高校生の一夏の成長は人格すら変えるはずだ。大いに期待したい。


観野甲輝。

文字通り「甲子園で輝く」最初で最後の夏の挑戦が始まった!!

高橋恵  女子ゴルフ界の新星  プリンセス・メグ

  • 2010/07/11(日) 13:15:29

突如ゴルフ界にシンデレラ中学生が現れた。横峯さくらや諸見里しのぶら日本のトップ女子プロが出場する女子ツアーの下部ツアーとなるステップアップツアーのANAプリンセスカップで長野・佐久長聖中2年の13歳、高橋恵がなんと優勝したのだ。



ステップアップツアーといってもれっきとしたプロツアーをなんと13歳の中学生が制したのだ。もちろん史上最年少の大記録である。

北海道のANAダイヤモンドGCにスーパー中学生が現れた。
共催者推薦で出場した中学2年がプレーオフを制して見事、優勝したのだ
優勝した高橋恵は13歳11カ月19日。

ステップアップツアーではあるが03年に宮里藍が作った国内女子の最年少優勝記録(18歳102日)を大幅に更新し石川遼が07年5月に15歳8か月で打ち立てた世界最年少プロツアー優勝のギネス記録を更新する快挙だ

藤井かすみや山口裕子や高又順らトップツアーの優勝経験者が11人も参加し出場107人中アマチュアは高橋恵と石川遼の妹の石川葉子の2人だけだった。
そんなトーナメントで優勝したのだ。

この日の高橋恵は首位に4打差でスタートし後半に怒涛の4つのバーディーラッシュでトップに立ちプロ選手2人とのプレーオフに臨んだ。

優勝の懸かったプレーオフの1ホール目で2mのバーディーパットをあっさり沈めて優勝してしまったのだ。

「歴史的優勝」にも関わらず13歳の少女は派手なガッツポーズも大喜びの歓喜の涙もなく至って静かで冷静な優勝だった。
中学2年とは思えない大ベテランのような勝ちっぷりと優勝の瞬間。


「まだ勝った実感がわきません。最後のパットも『私が勝っていいのかなぁ?』という感じで、気分は楽でした」とあっけらかんとした受け答えが
初々しい。

「どんな試合でも優勝するつもりで出場しているのでこの優勝は世界一になるための第一歩ですね」堂々と語る中学生。時折あどけない頬を紅く染めた。
「世界を目指すしかない。それには、自分で決断しないといけない」と横浜生まれであったが誘いのあった長野県の佐久長聖中学に進学した。
佐久長聖は中高一貫教育でスポーツにも力を入れておりゴルフ部は全国トップレベルにある。
ゴルフに集中できる環境もそうだが佐久長聖を選んだ最大の理由が「誠実・忍耐・礼節」を掲げる学校の校訓というから恐れ入る。

2人1部屋の寮暮らしでゴルフ漬けの毎日。体力強化のジム通いも始めもともとスケールの大きかったハートに、ビッグな飛距離まで武器に加えた。173cmの恵まれた体格に秒速47mのヘッドスピードは日本のトップ女子プロでも数値は文句なしの数字で世界水準のポテンシャルを持ち合わせる

「当たれば290ヤード、平均で275ヤード」のドライバー飛距離に胸を張り「曲げずに、正確に300ヤードを飛ばせるまで飛距離にこだわりたい」と発言のスケールが大きいのがいい。



国内女子ツアーはプロ資格獲得に「18歳以上」の年齢制限もあるため今すぐにプロになるのは難しいが将来楽しみな逸材であることは間違いない

今大会の優勝で「世界制覇」という大きな野望に向けて大きな自信を獲得したゴルフ界の“プリンセス・メグ”。

文字通りステップアップしていく高橋恵に注目である。

石津幸恵

  • 2010/07/08(木) 22:16:08

男子は帝王フェデラーが準々決勝で姿を消す大波乱があったものの第2シードのナダルが制し女子はセリーナ・ウィリアムズが貫録の2年連続優勝を収め幕を閉じたウィンブルドン(テニスの全英オープン)。

今年のウィンブルドンを沸かした日本人は復活したクルム伊達公子でも男子の新星・錦織圭でもなかった。
17歳の現役女子高生・石津幸恵だった。



最終日センターコート横の第1コートに姿を現した茨城県の土浦日大高に通う17歳。ウィンブルドン・ジュニアの女子シングルス決勝戦。41年前に沢松和子が優勝して以来の日本人の優勝を目指して18歳のクリスティナ・プリスコバと対戦した。1m64cmあり、そんなに小さくない体の石津幸恵が小さく見えるほど1m82cmのクリスティナ・プリスコバは大きく見えた。

1万人以上の観客を集めたジュニアの決勝戦で長身のクリスティナ・プリスコバから繰り出される角度のある強烈なサーブに石津幸恵は懸命に食らいつき鋭く深いストロークで対抗した。
第一セットを簡単に失ったものの第二セットは完全にサーブを読み切りリターンを左右に振りわけゲームをコントロールしていった。



クリスティナ・プリスコバは18歳だが石津幸恵は今年5月の福岡で行われたジュニアのオープン大会で対戦しストレート負けした相手で同じ92年生まれのライバルだ。

福岡の借りをウィンブルドンの大舞台でリベンジを果たすべく果敢に攻め立てた。前日には過去に優勝経験があり地元期待のイギリス人ローラ・ロブソン破り自信を深めたストロークの切れ味は格上のクリスティナ・プリスコバを上回っていた。



第2セットをとり、最終の第3セットは相手サーブをブレークするなど一時4−2とリードし優勝が見えたかのように思われた。しかしその後の4ゲームを連取されまさかの逆転負けを喫した。
試合直後、天真爛漫な17歳の目から悔し涙が止まらなかった。

「チャレンジャーの気持ちで試合に臨んだのに・・・最後は勝ちを意識して守りに入った・・・」と涙まじりに話してくれた。これが世界の戦いなのだ。
もってはいけない感情を持ってしまった時、世界では「負け」を意味してしまうのだ。それが経験できただけでも今大会は大きな収穫ではなかっただろうか?

4歳からテニスを始めてからテニス漬けの生活を送り続け小、中学校レベルで全国制覇をした天才。高校に進学した16歳の夏には早くもプロサーキットで優勝を果たしここまで既に日本人最多の5勝を挙げている。ウィンブルドンも今年が3回目の挑戦となった。

準優勝。負けてしまったがこの日のテニスは決して悪くはなかった。むしろテニスの内容だけ見ればクリスティナ・プリスコバを上回っていたし優勝してもおかしくなったはずだ。ただひとつだけ「持ってはいけない感情」を持ってしまっただけなのだ。

この日の悔し涙を忘れず更なるレベルアップをしてもらいものだ。
まだ17歳。石津幸恵の挑戦は始まったばかりだ。

香川真司

  • 2010/07/05(月) 10:05:55

日本代表の将来を背負うべき男の代表格に香川真司の名前は必ず上がってくるだろう。21歳と若く伸びしろもまだまだ沢山ある才能あふれる若きミッドフィルダーである。



元々ボランチの位置からのドリブル突破と正確なロングフィードが持ち味だったが類まれな運動量を評価されて比較的高い位置でプレーできる
攻撃的MFのポジションでさらなる輝きを見せている。

スピード豊かで巧みなボールコントロールテクニックを持ち合わせ果敢なドリブル突破からのチャンスメークや2列目からの飛び出しなど積極的な攻撃参加でチームの攻撃を引っ張っ存在である。

宮城県の高校時代にセレッソ大阪からオファーを受けユース選手の昇格ではなく一般の高校生が在学中にプロ契約したJリーグ初めての選手となった。チームん事情から入団した年に公式戦出場はなかったU-17日本代表に選ばれその名を轟かせた。
入団2年目からはレヴィー・クルピ新監督によって才能を見出されてレギュラーを獲得しリーグ戦35試合に出場しミスターセレッソ・森島寛晃をベンチに追いやる活躍を見せた。

U-20ワールドカップ日本代表にも18歳の若さで飛び級で選出され更にU-23の北京五輪代表にも飛び級で選出。さらには平成生まれとしては初めてフル代表にも選出され対UAE戦ではフル代表初ゴールを挙げるなどその活躍は日本でも最高水準のパフォーマンスをみせてくれた。

Jリーグでも順調に成績を残しJ2得点王にも輝きセレッソ大阪のJ1復帰の原動力となった。

そんな香川真司がいよいよ本格的に世界デビューをする日が来た。惜しくもワールドカップ代表からは漏れたもののドイツ・ブンデスリーガ1部のボルシア・ドルトムントへの完全移籍が決まったのだ。

香川真司のプレースタイルがドイツ向きかと言われればそうではない気がするしフィジカル重視のあたりの強いドイツサッカーに初めは相当苦労するような気もする。レギュラーが確約されたわけではないのでチームに合流してから試練に耐えないといけないのだがまだまだ若い
香川だけに本当にがんばってほしいと思う。

香川自身も相当な覚悟でドイツに渡るのかと思いきやドイツ語を勉強するために参考書を購入しながらも一切目を通さず、過去にも海外移籍を見越して通い始めた英会話教室はたった2回通っただけですでに断念しているというから驚きだ。
ボルシア・ドルトムントの在籍選手の情報も一切知らずに監督のサッカー感やライバル選手の特徴も知らずというのんびりぶり。代理人を含め関係者の方がヤキモキするほどだそうだ。甘くみてすぎではないだろうか?もっと真剣に準備をしてもらいたいものだ。



このままだと世界有数のトップリーグがそんなに甘くない世界だという事を痛いほど痛感することになるのだろう。言葉の壁にサッカーに対する考え方など幾多の大きな壁にぶつかっては跳ね返されるだろう。

それでも少しでも成長した香川が見られるのらいいが試合に出れずにフィジカルやパフォーマンスレベルが下がり、モチベーションも下がって成長というより退化して日本に帰ってくる姿だけは見たくない。

若き日本代表の成長か退化か?その答えは香川自身しかわからない



菅野智之

  • 2010/07/04(日) 01:43:47

早稲田の斉藤祐樹をはじめ数々のドラフト候補エースが目白押しの大学4年生。
この秋のドラフト戦線はこの大学生投手を中心に繰り広げられていくのだろう。そんな中まだ3年生、つまり来年のドラフトの大目玉となりそうなスター投手を今日は紹介しておきたい。

巨人の原監督のいとこにあたる菅野智之。



原監督と同じ東海大学に通う3年生だ。

自己最高155kmの速球と高速スライダーに落差のあるフォーク、キレ味抜群のカーブ、カットボールにツーシ―ムと多彩な変化球を織り交ぜながら三振を奪っていく本格派右腕である。185cmの長身であり肩、ヒジの関節が非常に柔らかく腕が大きくしなる。
更に投球時に右腕が体の近くを通るから速く振れる為さらにキレを増すのだ。今は大リーガー並みの強い上体を生かした投げ方で一見故障しがちのフォ―ムにも見えるが肩、ヒジの関節が非常に柔らかいが為にできる投げ方なのでこのままでも即戦力としてプロでも十分通用するであろう。

贅沢な事を言えば下半身がもっと使えるようになればスピードはまだ数キロ伸びると思われ日本人初の160kmも夢ではないポテンシャルを秘めている。


全日本大学野球選手権準決勝で慶応大学相手に散発4安打なんと17奪三振の快投で見事完封勝利をあげた。この日のピッチングはびっくりしたの一言に尽きる。142球での完封ショーに観衆は酔いしれた事だろう。
常時150キロを超えるストレート主体に140キロのカットボール、130キロ台のスライダーやフォークを決め球にカーブなんかを織り交ぜられると大学生レベルでは到底太刀打ちできない。

連投の疲れからか過度のプレッシャーからか翌日の決勝戦(東洋大学戦)では打ち込まれ優勝はならなかったが間違いなくプロで通用するピッチャーである。

衝撃の全国デビューを果たした菅野智之。来年のドラフトでは大注目である。

伊藤翔

  • 2010/07/02(金) 01:34:16

伊藤翔。日本の若き天才FWが清水エスパルスと契約した。



ワールドカップ日本代表にも名を連ねる森本孝幸を「和製・ロナウド」と呼べばフランス・グルノーブルから清水エスパルスに移籍した伊藤翔を「和製・アンリ」と呼ぶ事になるだろう。

184cmと日本人としては長身のFWだが、50mを5秒8で走る事ができるスピードが自慢のFWである。ドリブル突破を得意とし多彩なシュート技術を持ち合わせる。長身を活かしたポストプレーやヘディングシュートを見せることはあまりなくウイングで張らせたら幾度となく決定機を演出してくれるタイプの選手である。

ちなみにイングランド・プレミアリーグのアーセナルで長年、アンリを指導していたア―セン・ベンゲル監督は伊藤翔をアーセナルのトライアウトに参加させ「ミニアンリ」とそのプレースタイルを絶賛した事があった。この時初めて伊藤翔の名を日本中のサッカー関係者が耳にするのだがそれよりも以前にア―セン・ベンゲル監督がその才能に目を留めトライアウトに参加させたのだ。

この時、ア―セン・ベンゲル監督が「なぜ、日本のサッカーのコーチ達は伊藤翔の才能に気付かないのか?」「伊藤翔を見出せない日本に世界のフットボールを牽引することは無理だ」と伊藤の才能を評価すると共に日本のサッカー界を非難したのだ。

地元の中京大中京に進学した伊藤翔は同じ高校に通うスケートの安藤美姫と共に大注目の選手となった。一気に高校サッカー界のスターに上り詰めた伊藤翔。その進路には誰もが注目しJリーグ全球団に大学、海外のクラブをも巻き込んだ大騒動となった。



選んだのはフランス2部のグルノーブルだった。高校サッカーのスターが2部とはいえ直接ヨーロッパのクラブと契約した事に驚きさらに注目された。しかし世界挑戦は甘くなく言葉の壁や練習方法の違いに加え怪我にも悩まされ結果は残すことは出来なかった。今年の5月には移籍3年目にして悲願のリーグアンにデビューしたものの出場はその1試合のみの出場にとどまり出場機会を求めて日本に戻ってきたのだ。



「海外挑戦が早かったのではないか?」とか「もっと早く帰ってくるべきだった」と伊藤翔の挑戦をいかにも失敗の様にあおる日本のサッカー界とマスコミ。僕は決してそうは思わない。才能豊かな若い選手ほどもっと早く海外に挑戦するべきできと考えている。厳しい環境で揉まれ経験を積むことで得られる物は大きい筈である。伊藤翔の答えは伊藤翔自身が清水エスパルスで大活躍をして出してくれるだろう。



伊藤翔。近い将来必ず日本代表になるだろう。その時まで是非、覚えておいてもらいたい


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